新田義貞公と稲村ヶ崎

QooQoo

2007年04月29日 08:47

我輩は犬である。名前はQOOQOOである。

早朝の稲村ヶ崎に行ってきた。

 ♪♪ 砂にかいた名前消して、波はどこへ帰るのか ♪♪

稲村ヶ崎といえば
我輩は『稲村ジェーン』を思い出す。



でもQOOPAPAは新田義貞を連想するそうだ。

明治天皇御製「新田義貞」

 投げ入れし剣の光あらわれて

 千尋の海もくがとなりぬる


鎌倉は三方を山に囲まれ、一方が海に面し
攻めるに難く守るに易い城塞都市。

元弘3(1333)年、倒幕の兵を挙げた新田義貞は
海側から幕府軍の背後を突こうと企てるが
稲村ヶ崎を越えられない。

「太平記」にはこう記されている。

 「げにもこの陣の寄手、
 かなはで引きぬらんも理なり
 と見給ひければ
 義貞馬より下りたまひて
 冑を脱いで海上を遥々と伏し拝み
 龍神に向かつて祈誓したまひける。

 みつから佩きたまへる
 金作りの太刀を抜いて
 海中へ投げたまひけり。

 まことに龍神納受やしたまひけん
 その夜の月の入り方に
 先々さらに干る事も無かりける稲村崎
 にはかに二十余町干あがって
 平沙渺々たり。

 横矢射んと構へぬる数千の兵船も
 落ち行く塩に誘はれて
 遥かの沖に漂へり。

 不思議と云ふもたぐい無し」

その後の新田義貞は、ご存知のとおり
建武の新政が瓦解するや、足利尊氏に敗れ
北陸におち、越前国藤島の燈明寺畷で戦死する。

世間一般では凡将・愚将と評価されがちな義貞。

でもQOOPAPAは、何をやっても裏目になる生き方に
ものすごくシンパシーを感じるのだそうだ。

そういえば、義貞が恋におぼれたという
勾当内侍のお墓は堅田にあったなあ・・・・・・



朝焼けの富士山が美しい。

やはり我輩は「稲村ジェーン」である!

 ♪♪ あれから10年も 忘れられたBig Wave ♪♪



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